大人になりきれない大人の日記

大人になりきれない大人の日記

国が邪魔をする

自分にとって最もストレスが溜まることは、

・理不尽

・不公平

この2点に集約される。

はっきり楽しいことと言えるのは、酒を飲むこと。それを阻害しようとしているのが現政府。しかもオリンピックはやります。その際出るであろう感染者はしょうがない。それ以外で抑えます。あまりにも国民をバカにしている。本来なら選挙でなんとか自民を蹴落としたいとこだが。本当にここがいちばん悲しく、自民は高笑いしているであろう事実。自民以外国政を任せられる政党が日本には無いという事実。それがわかっているからやりたいようにやっているのだろう。

来週から、また禁酒法の始まりだ。情けない限りだ。

楽しいことって?

自分では何が楽しいことなのかさっぱりわからないので、他の人の意見を見ようと、ネットで探してみた。ある人は、そもそも楽しむ気がない、あるいは、楽しいという感情が希薄になってるとか、色々あったが、最初のそもそも楽しもうという気がない、というのはドキッとした。確かに気持ちとは裏腹にその気がないのかもしれないな。でも、今が楽しくないのは事実なのにだ。

やはり、心に慣性が働いているのだろうか。あまりにも自分の気持ちを見せず、隠して人に合わせるように生きて逃げてきた。だからそうすることが自分の唯一の生き方であり、全てなのだ。それをちょっとでも変えようとするとブレーキがかかってしまう。そんな気がする。

ある人は、「やっぱり大人数でいる方が楽しいと感じることって多いですよね。 ご飯も一人で食べるより数人で話しをしながら食べる方が楽しいですし、ゲームも一人より複数人でプレイする方が楽しさが何倍にもなりますよね。」う〜ん、それどうだろ。そんなに複数の方が楽しいかな?気を使いすぎて疲れちゃう、と考えてしまう自分がいる。

基本、少人数、本当に気を遣わないでいられるような人がいたならばだが。自分にはそんな人はいないので、結局1人の方が気楽だ。素でいられるから。

もう少し、調べてみよう。自分で答えが出てこないなら。自分はあらためて少数派なんだな。

見たいものを見ているだけ

苦しい、人生は苦しい。そう本当に思っている。それはある意味正しい。何故ならば、苦しいものを見ようとしているから。例えば、パン屋に入り、あんぱんを見ていたとする。それはあんぱんである。この文章は正しい。あんぱんを見ようと決めてあんぱんを見ているのだから。

自分は苦しい辛い逃げたいと思っている、人生は苦しいと思っている。それは知らず知らず自ら苦しいことを見ようとしているから。仕事の辛い面、人間関係の嫌な面、そう言うものが嫌だだと考えているのに、実際にはそう言うものを見ようとしているのだ。

この理論を正しいとするなら、楽しいことを見ようとすれば人生楽しくなるはずだ。とすると、最初に明確にしておかなければいけないのは、自分にとって何が楽しいことなのかと言うこと。何が楽しいのだろう?幸せになりたいとするなら、何をもって幸せだと思えるのかをはっきりさせておくこと。

どうやらここも自分の問題点かもしれないな。何が楽しいことなのか。何が幸せなのか。すぐに答えられないのだ。楽しいって思うこと。なんだろうか、そんなことすら分からないとは。

自分で考えると言うことを放棄してしまっているのかもしれない。あまりにも、他人に合わせているうちに、自分を蔑ろにしてしまって、自分というものをわからなくなっているのでしょう。

頑張る

ネットでこんな文章を見つけた。

「人間は、頑張ることの意味さえ実感できれば多少のことには耐えていける存在だといいます。でも、意味を実感できないまま頑張ることを強いられるとしら……それを耐え続けるのは簡単なことではないのです。」

頑張るということは無理をするということと同意な気がする。無理をすると心と体に歪みを来たす。でも、その先に理由、例えば夢の為とかもっと身近なとこだと、車や家といった物欲の為。そういった目の前に人参が無ければ人は頑張れない。そして頑張る理由が生きる為だとしたらもう頑張ることは無理。生きる事に意味は見出せないからだ。だから自分は頑張れないんだな。

ひとつ合点がいった。

ただ虚しい

人生後半に入り、仕事、私生活共に満たされる事なく、今に至る。私生活に関しては波があるから、いい時も僅かながらあった。しかし仕事に関しては自分もいたらないせいだろう、全く面白みもなく今に至ってしまった。情けなくもこれが現実。

ただ生存のためだけに働き、金を得て、ダラダラときてしまった。情けない限り。

全て、適当に逃げ、なんとなくやり過ごし、意思もなく生きてきた結果、自分というものが全くなく、全て他人が舵を取る人生となっているかのようだ。他人に合わせ、争いを避け、長いものに巻かれまくって生きてきた。そう、自分がないのだ。自分の人生なのに自分というものが無い。この先もたいして変わらない未来しか思い描けない。何が楽しくて生きているのか?

死にたいのではなく、生きたくないという感覚。本当にひとつのボタンの掛け違いから気付けばこんな大きな間違いを犯してしまった。自分を育ててこなかった。自分とはなんなのだろう。

枝野という馬鹿

新規感染者数50人まで解除すべきでない、と言ったとか。本当にこいつは馬鹿なんだなと思った。仮にその時まで解除せず我慢したとしよう。で、その1週間後どうなる?と言う発想はこの馬鹿には無いのか?リバウンドするにきまってるだろ!

何でこんな馬鹿ばかりが野党の連中なんだろうか。悲しくてアホらしくて仕方がない。結局のところ、制限を緩めて締めての繰り返しで、特効薬が出来るまではやり過ごすしかないだろ。しかし、この馬鹿は…

何だかんだ言っても、現在の日本には自民党一択なんだなと思うしかない。

本当に情けない。

野党はただ与党に対し罵詈雑言浴びせてればお金がはいってくるんだから、楽な商売だな。ほんと羨ましいわ。自分らが第一党になったら、議員数を半分にするとでも言ってみろ。出来るわけ無いけど。

反出生主義

https://news.yahoo.co.jp/articles/c5a00343badc8a18c15b2615a780e0e27d57c440?page=1

この言葉は初めて聞いた。考え方は昔からあったし、自分も似たようなことを考えている1人だ。生まれてきたことが間違えで、生まれてこなければこんな苦しみを味合わなくて済んだのだ。記事にもあるが、幸だどれほどあろうが、不幸が一つでもあれば全ての幸が無に帰すことすらあり得るのだ。

 

なぜ人は生きるのか?=生まれてきちゃったから

 

これが全てでしょう!なんて簡単なそして完璧な答えだろうか。生まれてきてしまったから苦しみながらもなんとか我慢して生きていく。しかし、そもそも生まれてこなければ、安全な「無」の世界にいられたのだ。何もない世界、感覚も無ければ何も無い、それこそが永遠の幸せなのでは?

子供を産むのは親のエゴ、ご都合主義以外の何者でも無い。親はその責任を取れるのか?取れるわけがない。親の老後、更には自身の老後、そんなものに苦しむ必要もなくなる。親の中には自身の老後を子にみてもらうつもりはないと言う人もいるが、日本の法律ではそう簡単にはいかない。それ知ってるよね?

自分はどうしても親が子を産むエゴに対して目がいってしまう。なぜこの地獄に我が子を産み落とす?その子供は絶対に苦しむ事になる。

この世こそが地獄なのだ。